2017年5月30日火曜日

訪れる前に知っておくべき、等持院の歴史

京都にある等持院は大通り沿いではなく、少し奥まった住宅街の中にある寺院です。そのためなのか、有名な寺院に関わらずあまり訪れる観光客が多くはなくとても静かです。中坊進二はここが室町時代での足利将軍の墓であることぐらいしか知りませんでしたが、その歴史を知るとこの静かさと美しい庭園が今、こうやって存在していることをとても嬉しく感じます。等持院は等持寺の別院として足利将軍により建てられました。等持寺は政庁と禅宗寺院の2つの側面を持った建物で、足利将軍の住居としても使用されていました。足利将軍は3カ所に別院を建てようと考えていて、その中のひとつがこの京都にある等持院でした。しかし当時の呼び名は違うもので、足利将軍が亡くなったあとで改称されたと言われています。足利将軍の墓所とされた等持院は歴代の将軍の葬儀はここで行われたという、いわゆる菩提寺とされた寺院です。敷地内にある霊光殿には歴代の将軍の木像が安置されていることでもそのことを示していることがわかります。中坊進二も見学させてもらいましたが、なぜか2体の木像が欠けていて、歴代全員の木像が揃ってないことが大いにミステリアスに感じましたが、その後の歴史を知るとなんとなくその原因がわかるような気がしました。その後の等持院は幾度も焼失を重ねてきました。現在の等持院は1818年に再建されたものだということです。時代は離れますが、火災ではない災難が再び起こります。幕末の頃に歴代将軍の木像のうちの数体の首の部分と位牌が盗まれ、河原にその首が晒されたという事件です。これは幕末の思想のひとつであった倒幕の意味を持った事件であったと考えられています。足利将軍はとてもいい人物だったとされているのに、見せしめとして行われたこの事件を中坊進二は初めて知り、時代の憤りを感じてしまいました。そして現在では京都の中でも椿や紅葉の名所としても知られる寺院とされ、この場所を気に入るファンも密かにいるということを知りました。中坊進二もまた訪れたいと思う場所のひとつになりました。等持院のアクセスには、等持院駅を下車して徒歩で約10分ほどで到着します。

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